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■ Column コラム
2016年4月【歴史】
この批判も一理ありますが、しょせん、歴史は主観的なものです。全ての事象に客観的な数値データでも揃っていない限り、歴史を捉えようとする人の立場や思想が自ずと入り込みます。ヨーロッパ人にはヨーロッパ人の捉え方があり、アジア人にはアジア人の捉え方があります。ヨーロッパ人にとって、アメリカは「発見」された「新大陸」であることは事実でしょう。その捉え方がそんなに「傲慢」なことなのか、と首をかしげてしまいます。
コロンブスはイタリアの都市ジェノヴァの出身とされています。若い時に探険した大西洋上のマディラ島において、西から流れ着く漂流物が、ヨーロッパにはない道具や装飾品であるのを目撃し、ヨーロッパやアフリカの人種ではない人間の死体が流れついたという話なども聞き、「大西洋の向こうに、マルコ・ポーロが書いたアジアやジパングがあるにちがいない、それもすぐ近くに。」と確信するようになります。
コロンブスはポルトガル国王に自説を主張し、パトロンとなるよう請願しました。地球は丸く、西回りでインドに到達できる、とする地球球体説をコロンブスを含め、多くの識者が主張していましたが、確証がありませんでした。大西洋を越えた先に、どの様な世界があるのか、誰にも分からず、推測の域を出ません。
航海船を建造し、探検隊を組織することには莫大なカネがかかります。確証のないコロンブスの主張に資金を投ずることはリスクが大き過ぎ、ポルトガル国王はコロンブスを支援しませんでした。その様なリスクを取らなくても、ポルトガルは既に東回りのインド航路を開拓していました。
ポルトガルに拒絶されたコロンブスはスペインへ、売り込みに行きます。スペインは国家財政については豊かでしたが、新航路開拓では、ポルトガルよりも出遅れていました。スペインがポルトガルに追いつくためには何らかの一発逆転策が必要でした。スペインはコロンブスの「奇策」に賭けることにしたのです。
1492年、コロンブスは三隻の船と100人程度の船員を率い、スペインのパロス港を出発しました。2ヶ月かけ、大西洋を越え、アメリカ大陸東の小さな群島にたどり着きます。コロンブスはここをインドだと勘違いしました。その後、探検家アメリゴ・ヴェスプッチにより、この地域はインドとは違う新しい地域であることが判明し、彼の名に因み、アメリカと名付けられました。
コロンブスは死ぬまで、新大陸をアジアの端である、と信じて疑わなかった、とされます。しかし、本当のところ、彼は、それがアジアとは異なる別の大陸だということに気付いていたのではないでしょうか。
コロンブスが見た、インディアンたちのジャングルの原始生活は、マルコ・ポーロが『東方見聞録』で記した「カタイ(中国)」とは明らかに様子が違い、おかしいと感じたはずです。また、黄金の国ジパングらしき情報の片鱗すら、コロンブスはそこに発見することができなかったのです。しかし、コロンブスは死ぬまで、最期まで自らが発見した血をインドの一部であると主張し続けました。